本願寺の東西分裂(1602年)は、徳川家康の謀略が通説になっておりますが、真宗大谷派は、弟に門主を譲った教如が独立を求めて家康に近づき分派を果たしたとする新説を紹介した本「教如上人と東本願寺創立」(同派教学研究所(玉光順正所長)編)を出版しました。
そもそも通説では、父顕如上人の没後、豊臣秀吉の命令で門主に就いた弟准如と教如の確執から門徒勢力が2分したのに目を付けた家康が、巨大教団の弱体化を画策し東西に分裂させたとされていました。 新著は、教如が秀吉に「隠退」を命じられた後も門徒と宗教活動を続けたことから「本願寺を別立させる強い意志を持っていた」と指摘しています。 家康との仲介を家臣に依頼する教如直筆の書状や、関ケ原の合戦前後に教如が家康と何度も会ったことを示す史料を紹介し「秀吉の次は家康の天下と読み、茶人千利休の人脈などを駆使し家康に接近した」と推論しています。 その上で家康から1602年、現在の西本願寺近くに土地の寄進を受け、東本願寺を創建したと結論づけています。 しかし、「門徒と宗教活動を続けた」=「本願寺を別立させる意志を持つ」とは、直に言えないと思いますし、また、関ヶ原合戦前後に家康と会っているからといって、それは家康の謀略ではないとは言い切れないと思いますが、あくまで学説ですからね。
by riptulip
| 2005-03-21 23:43
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